田舎講師
片田舎の塾の講師です。 生徒との悪戦苦闘の日々を綴っています。
DATE: --/--/--(--)   CATEGORY: スポンサー広告
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
page top
DATE: 2008/11/04(火)   CATEGORY: 歴史
幼冲の天子
田舎講師のあんこです。

本日は文化の日でした。正確には昨日…なのですが。

文化の日。この日は実は戦前も祝日でした。歴史家の飛鳥井雅道が大帝と呼んだ明治天皇の誕生日、「明治天長節」です。

明治天皇は徳川慶喜の大政奉還、そして王政復古の大号令で歴史の表舞台に飛び出るわけですが、この時の天皇はまだ幼く、親政を行えるような状況ではありませんでした。

徳川慶喜が大政奉還をしたため、政権が朝廷に返り、京都御所では今後の方策を決めるために会議が開かれました。世に言う「小御所会議」です。

山内容堂は会議が終った時、無念で仕方が無かったと私、あんこは思うのです。

山内容堂は大政奉還をした慶喜を新政権の中心に据えることを希望しました。しかし、岩倉具視は猛反対です。むしろ慶喜に対して辞官納地を迫るわけなのですが、実はこの会議に当の慶喜は参加していなかったのです。容堂はそれを盾に取り、慶喜がいないこの席で重要事項を決めることに猛反対します。そして、慶喜参加の新政権を拒む岩倉たちを攻撃するために放った一言が問題となってしまったのです。

「今日の挙、すこぶる陰険にわたる。(中略)恐らくは幼冲(ようちゅう)の天子を推して権柄を窃取せんと欲する(後略)」:飛鳥井雅道『明治大帝』講談社、2002年、130頁より。

つまり、少数の公家(岩倉たちのこと)が慶喜の進退をこの会議で決めるのはいかにも陰険な考えであり、幼い天皇を担いで自分たちが政権を手に入れようとしているのではないか?という意味です。

これに対して岩倉は容堂の「幼冲の天子」という言葉を捕まえて反撃に出ます。天子(天皇)の目の前で、「幼い」というのはあまりも無礼極まるではないか!と。

容堂はこれに対して応戦することはなく、会議は岩倉主導で慶喜の「辞官納地」が決められるのです。

私、あんこは容堂は無念でならなかったと思うのです。

維新後の容堂はとにかく酒に溺れる生活だったとか。元から大酒飲みでしたが、維新後はさらに浴びる程飲んだそうです。何でも死んだ時には酒の飲みすぎで歯が一本も無かったとか。

話が山内容堂に向かってしまいましたが、11月3日は文化の日ですが、明治天長節だった時代もあるんです。
スポンサーサイト
[ TB*0 | CO*1 ] page top
DATE: 2008/10/23(木)   CATEGORY: 歴史
皇弟
田舎講師のあんこです。

先日に引き続き、満州一万年王朝の話の続きを。

愛新覚羅溥儀には弟がいました。

愛新覚羅溥傑

です。

皇弟です。

実は、私あんこは不勉強で溥傑のことに関しては自信がございません。たった一度だけです。一度だけゼミで溥傑の妻・嵯峨浩(さがひろ)のことを取り扱ったテーマで発表したことがあります。今日はそんな記憶の欠片を少しだけかき集めてみましょう。

溥傑の妻は日本人です。嵯峨公爵家から妻を迎えたのです。

清は滅び、溥儀とその家族は紫禁城を追われ、天津の租界で生活していた頃だったと思います。満州に夢を馳せる関東軍は満州一族に接近し、溥傑を日本に留学させました。日本の陸軍士官学校にです。

だから溥傑は皇弟であると同時に日本の軍人でもあります。

日本に留学していた時に嵯峨浩と結ばれています。結婚式の式場は九段の陸軍会館だったと思います。

満州皇帝・溥儀に子どもが生れれば世継ぎとして満州国は満州族が世襲することとなりますが、溥儀は子宝に恵まれず、ようやく皇后が妊娠したと思ったら子どもの父親はなんと皇后付きの運転手だったのです。

後日談となりますが、運転手は殺され、皇后の子どもは死産だった。と伝えられています。本当に死産だったかどうかは皆さんのご想像に任せましょう。

一方で、溥傑と嵯峨浩の間に子どもが生れれば、半分は日本の血が流れた皇帝が誕生するわけです。暴走する関東軍の策略だったとも考えられます。しかし、「泣く子もだまる鬼の関東軍」でも感情までは自由にコントロールすることは不可能でした。二人の間には「愛」があったのです。

時代に翻弄された夫婦ですが、そこには国境を越えた「愛」があったのです。

と結べば少しは格好がつくでしょうか?

とにかく、です。

もし、興味が沸いたら、嵯峨浩の自伝『流転の王妃』を手にとってみて下さい。


今日はフトンを干したので、フカフカです。
[ TB*0 | CO*1 ] page top
DATE: 2008/10/01(水)   CATEGORY: 歴史
紅白の決戦。
田舎講師のあんこです。

今日も歴史の話をひとつ。

紅白と言われたら皆さんは何を想像しますか?紅白歌合戦、運動会など、様々なものがあると思います。この紅白の起源は何なのでしょうか。九百年ほど時代を遡らなければなりません。

源平合戦にこの起源があるそうです。

源氏は白旗。
平家は赤旗。

この戦いに起源があるそうです。源平合戦、教科書的には治承・寿永の乱ですが、この戦いに勝利を収めたのは皆さんご存知の通り、源氏です。壇ノ浦の戦いで、安徳天皇、そして平家の直系は滅んでしまいます。

その後、征夷大将軍、つまり武家の棟梁は源氏にのみ許され、室町幕府、そして江戸幕府と源氏の家系で幕府は運営されるのです。白旗の天下です。

1853年、浦賀にペリー艦隊が訪れました。砲艦外交で以て強引に開国を迫ります。ペリーは国書を手渡し、そして翌年返事を貰いに来る、と言って日本を離れるのですが、この時に幕府に渡したのは大統領・フィルモアの国書だけではありませんでした。降伏用の白旗を渡していたと伝えられます。

白旗は源氏の旗。日本では天下の旗でした。

しかし、万国公法、つまり国際法では降伏の際に使われるのが白旗だったのです。

現代でも白旗は降伏の象徴ですが、紅白合戦も日常の中で使われます。


源氏の武神である八幡太郎義家は黄泉の国で白旗をどう思うでしょうか。
[ TB*0 | CO*1 ] page top
DATE: 2008/09/30(火)   CATEGORY: 歴史
土佐藩の身分秩序に関して考える。
田舎講師のあんこです。

今日は土佐藩に関して少し語ってみましょう。

土佐藩主は山内家です。維新の際には徳川慶喜に対して大政奉還を勧めた山内豊信(容堂)を輩出しています。

この山内家ですが、元々土佐出身だったわけではございません。元々は美濃出身で、戦国時代に信長に仕え、その後は秀吉、そして家康に仕え、関ヶ原の功として土佐藩主にまで上りつめたのが、初代土佐藩主、山内一豊(やまのうちかずとよ)です。奥さんはかの有名な千代です。機会があったらこちらの話も語りましょう。今日は土佐藩の身分秩序で。

しかし、戦国時代、土佐国は山内氏ではなく、長宗曾我部(ちょうそかべ)氏が戦国大名として君臨していたのです。あまりにも顔が美形だったため、「姫和子」とあだ名された元親が土佐を統一し、あわや四国を平定するまでに成長したのですが、秀吉に屈し秀吉からは土佐一国の支配を許されたのですが、元親の息子、盛親は関ヶ原では西軍に味方し、御家取り潰しとなっています。その後、土佐藩主に任命されたのが山内一豊なわけです。

山内一豊は自分の家臣団を率いて土佐に入国したわけですが、土佐には長宗曾我部氏の遺臣が残っておりました。

一領具足(いちりょうぐそく)と呼ばれた勇猛な長宗曾我部氏の遺臣たちです。一領具足と呼ばれた人々は、半農半武軍団です。普段は田畑を耕しながら農民と変わらない生活を営んでいましたが、田畑に出る際にも具足=鎧兜を持っていき、いざ戦ともなれば畑から城へ直行する、という家臣団でした。

主君は御家取り潰しになっても、家臣まで取り潰されるわけではありませんので、遺臣たちが土佐に残っていたのです。彼らは山内氏のことを良くは思いませんでした。良く思えるはずもありません。中には反乱を企てる一領具足もいたようです。

そこで山内一豊は一計を案じました。

山内家・長曾我部家遺臣による親睦相撲大会を企画したのです。

しかし、ただの相撲大会ではございません。相撲大会に名を借りただまし討ちです。

このだまし討ちで、反乱を企てるような有力な長曾我部氏の遺臣は討ち取られ、残った一領具足たちは山内家の家臣団に編成されたのです。しかし、山内家には山内家の家臣団もおりました。土佐入国以前から従っていた家臣たちです。

一豊は、元からの家臣を上士(じょうし)、一領具足たちを郷士(ごうし)として区別、いや…差別しました。こうして土佐藩内での支配階級である武士の間にも激しい身分秩序が誕生したのです。例を挙げると、郷士は下駄は履いてはならない、日傘を差してはならない、上士に会えば礼を取らなければならない、藩主へのお目通りはかなわない、などです。同じ武士なのにも関らず…です。


時は流れ、日本は維新を迎えます。

土佐藩は維新の際には西南雄藩として君臨し、多くの志士、そして維新後は自由民権運動の士を輩出することとなります。

例えば、板垣退助、後藤象二郎、福岡孝弟、佐々木高之などなど。彼らは上士出身です。

例えば、坂本竜馬、武市半平太、吉村寅太郎…挙げればきりが無いほどの志士を輩出しております。


しかし、維新後まで生き延びた郷士出身の志士は多くはありません。吉村のように天誅組の変で命を落としたり、池田屋事件で命を落としたり…はたまた板垣・後藤に処刑されてしまった郷士も少なくはありません。

土佐郷士の首領であった武市半平太も板垣・後藤らによって処刑されたひとりです。

土佐郷士はどのような「維新」を望んだのでしょうか。

[ TB*0 | CO*1 ] page top
DATE: 2008/09/26(金)   CATEGORY: 歴史
吉村寅太郎という男
田舎講師のあんこです。

たまには歴史の話をひとつ。

幕末のお話です。天誅組の変という事件がありました。

1853年のペリー来航以来、国内は尊王攘夷論と公武合体論でてんやわんやの大騒ぎ。長州藩(現山口県)は尊王攘夷の急先鋒でした。外国嫌いの孝明天皇を中心とする公家に接触し、千年王城の都、京都を攘夷一色で染めていったのです。

この長州藩の尊王攘夷運動に触発され、全国から脱藩浪士たちが京都へ集結します。志を持った志士たちです。中には「天誅」と称して幕府側の人間を殺害したり、公武合体派の公家の家へ殺害した人間の耳や手を届けたり、脅迫したりと、やりたい放題です。彼等のバックには長州藩や土佐藩の土佐勤皇党(土佐藩内部の尊王攘夷派)がいました。

しかし、1854年の日米和親条約、そして1858年の日米修好通商条約により欧米列強との貿易は開始され、幕府首脳は攘夷よりも公武合体を推し進めました。

しかし、京都の天皇・公家たちは尊王攘夷を唱えます。

そんな時、京都守護職の松平容保の会津藩と、島津久光の薩摩藩は接近し、尊王攘夷の急先鋒である長州藩を追い落としにかかります。いわゆる「八月十八日」の政変です。攘夷派の公家に反対している公家勢力を薩摩藩と会津藩で抱き込み、孝明天皇もコロっと攘夷派から公武合体派に転んでしまいます。

「八月十八日の政変」により長州藩は御所の門の警備を解かれ、三条実美ら尊王攘夷を主張した7人の公家たちと共に国へ引き上げます。

この時に困ったのは長州藩の尊王攘夷運動に触発されて京都に集結した志士たちでした。彼等は脱藩という大罪を犯して京都へ駆けつけたため、自分の国に帰ることは出来ません。脱藩は自分の主君を裏切る行為なので、見つかり次第処刑されてしまいます。

吉村寅太郎も困り果てた志士のひとりでした。

吉村寅太郎は土佐藩を脱藩し、京都へ駆けつけた志士でした。もちろん国許へは帰れません。そして、長州藩士でもありませんから、長州へ向かうことも出来ませんでした。

そこで、吉村寅太郎は無謀にも仲間を集めて幕府を倒すために大和の吉野で挙兵します。

いわゆる「天誅組の変」です。

天誅組はあっけなく幕府軍に敗れてしまいますが、最も早い段階での倒幕運動として今日に語り次がれています。


吉野山 風に乱るる紅葉葉(もみじは)は
我が打つ太刀の 血煙と見よ

吉村寅太郎の辞世の句です。

吉野山が紅葉で赤く染まったなら、吉村が戦っているのだ、と俺を思い出してくれ。と伝えたかったのでしょうか。

もうすぐ紅葉の季節です。


ここまで読んで下さった皆様。お疲れ様でした。
生徒の皆さん。幕末の流れが少しは理解できましたか?

田舎講師はもっと勉強が必要ですね。頑張ります。
[ TB*0 | CO*1 ] page top
Copyright © 田舎講師. all rights reserved. ページの先頭へ
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。