田舎講師
片田舎の塾の講師です。 生徒との悪戦苦闘の日々を綴っています。
DATE: --/--/--(--)   CATEGORY: スポンサー広告
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
page top
DATE: 2008/09/30(火)   CATEGORY: 歴史
土佐藩の身分秩序に関して考える。
田舎講師のあんこです。

今日は土佐藩に関して少し語ってみましょう。

土佐藩主は山内家です。維新の際には徳川慶喜に対して大政奉還を勧めた山内豊信(容堂)を輩出しています。

この山内家ですが、元々土佐出身だったわけではございません。元々は美濃出身で、戦国時代に信長に仕え、その後は秀吉、そして家康に仕え、関ヶ原の功として土佐藩主にまで上りつめたのが、初代土佐藩主、山内一豊(やまのうちかずとよ)です。奥さんはかの有名な千代です。機会があったらこちらの話も語りましょう。今日は土佐藩の身分秩序で。

しかし、戦国時代、土佐国は山内氏ではなく、長宗曾我部(ちょうそかべ)氏が戦国大名として君臨していたのです。あまりにも顔が美形だったため、「姫和子」とあだ名された元親が土佐を統一し、あわや四国を平定するまでに成長したのですが、秀吉に屈し秀吉からは土佐一国の支配を許されたのですが、元親の息子、盛親は関ヶ原では西軍に味方し、御家取り潰しとなっています。その後、土佐藩主に任命されたのが山内一豊なわけです。

山内一豊は自分の家臣団を率いて土佐に入国したわけですが、土佐には長宗曾我部氏の遺臣が残っておりました。

一領具足(いちりょうぐそく)と呼ばれた勇猛な長宗曾我部氏の遺臣たちです。一領具足と呼ばれた人々は、半農半武軍団です。普段は田畑を耕しながら農民と変わらない生活を営んでいましたが、田畑に出る際にも具足=鎧兜を持っていき、いざ戦ともなれば畑から城へ直行する、という家臣団でした。

主君は御家取り潰しになっても、家臣まで取り潰されるわけではありませんので、遺臣たちが土佐に残っていたのです。彼らは山内氏のことを良くは思いませんでした。良く思えるはずもありません。中には反乱を企てる一領具足もいたようです。

そこで山内一豊は一計を案じました。

山内家・長曾我部家遺臣による親睦相撲大会を企画したのです。

しかし、ただの相撲大会ではございません。相撲大会に名を借りただまし討ちです。

このだまし討ちで、反乱を企てるような有力な長曾我部氏の遺臣は討ち取られ、残った一領具足たちは山内家の家臣団に編成されたのです。しかし、山内家には山内家の家臣団もおりました。土佐入国以前から従っていた家臣たちです。

一豊は、元からの家臣を上士(じょうし)、一領具足たちを郷士(ごうし)として区別、いや…差別しました。こうして土佐藩内での支配階級である武士の間にも激しい身分秩序が誕生したのです。例を挙げると、郷士は下駄は履いてはならない、日傘を差してはならない、上士に会えば礼を取らなければならない、藩主へのお目通りはかなわない、などです。同じ武士なのにも関らず…です。


時は流れ、日本は維新を迎えます。

土佐藩は維新の際には西南雄藩として君臨し、多くの志士、そして維新後は自由民権運動の士を輩出することとなります。

例えば、板垣退助、後藤象二郎、福岡孝弟、佐々木高之などなど。彼らは上士出身です。

例えば、坂本竜馬、武市半平太、吉村寅太郎…挙げればきりが無いほどの志士を輩出しております。


しかし、維新後まで生き延びた郷士出身の志士は多くはありません。吉村のように天誅組の変で命を落としたり、池田屋事件で命を落としたり…はたまた板垣・後藤に処刑されてしまった郷士も少なくはありません。

土佐郷士の首領であった武市半平太も板垣・後藤らによって処刑されたひとりです。

土佐郷士はどのような「維新」を望んだのでしょうか。

スポンサーサイト
[ TB*0 | CO*1 ] page top

COMMENT

 管理者にだけ表示を許可する
● 土佐藩・・面白い藩のようですね。
雪虫の伝説 | URL | 2008/09/30(火) 21:12 [EDIT]
維新の嵐の中で誰もが道を模索していたのですね。
歴史にもしもはありませんが、幕末維新の人々に語らせたかったですね、新しい世界を。
幕末モノも扱って欲しいです。

TRACK BACK
TB*URL
Copyright © 田舎講師. all rights reserved. ページの先頭へ
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。