田舎講師
片田舎の塾の講師です。 生徒との悪戦苦闘の日々を綴っています。
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DATE: 2008/09/11(木)   CATEGORY: 歴史
縁切寺に関して思うこと。
田舎講師のあんこです。

たまには歴史の話をひとつ。

縁切寺

と呼ばれるお寺がございます。日本史の入試で問われることもあります。多くの場合、

鎌倉東慶時を答えれば正解です。最もメジャーな縁切寺です。江戸時代は家長、つまり旦那さんの権力が強すぎたため、旦那さんが奥さんを気に入らなければ、「三行半」と呼ばれる離縁状を書けば離婚が成立してしまったわけです。

しかし、夫婦ってそんな簡単ななものじゃあないでしょう。奥さんが別れたいと思う場合だって多々あるでしょう。しかし、江戸時代は家長権が強すぎたため、奥さんから離縁を申し出るなんて以ての外だったんです。

そこで縁切寺です。

ここに逃げ込めば、尼修業をしなければなりませんが、離縁させてくれるのでした。

そして、大体の場合は先述したように縁切寺に関しては鎌倉東慶寺を答えさせる問題なのですが、縁切寺は鎌倉東慶寺だけではありません。上野(こうずけ・現群馬県)の満徳寺も有名です。

しかし、入試で問われるのはやはり鎌倉東慶寺でしょう。満徳寺が問われることはあまりありません。


私、あんこは昔大失恋をしました。飯が咽喉を通らないというのはこのことか。と思いました。思い立って京都に失恋旅行をしました。

その時、偶然にも縁切神社なるものを発見しました。蓮華王院(三十三間堂)の近くだったと思います。この未練から解放してくれるなら…と思い、行ってみました。

短冊に願いを書いて境内の木に吊るすのですが、背筋が凍る思いでした。

私、あんこの失恋なんてかわいいものでした。

世の中には間違いを起して家族を困らせる男性が多いのかもしれませんね。

京都は恋愛成就の神社も多いですが、この様な神社もあるんですね。


私、あんこは今年「縁」があって10人の生徒と楽しくやっています。

9人の姫君と1人の若君です。

授業はしていませんが、仲良くしてくれる若君もいます。


私、あんこはこの「縁」を大切にしたいと思います。

昼ごはんを食べて、ヒゲを剃ったら今日も戦いの始まりです。
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DATE: 2008/09/03(水)   CATEGORY: 歴史
織田信長について考える②
田舎講師のあんこです。

田舎講師の朝はゆっくりです。

昨日、フトンの中でまたまた織田信長のエピソードを思い出しました。

今日は再び織田信長の話をひとつ。


「わしの息子たちは尾張の婿殿の前に馬を繋ぐことになるだろう。」
美濃の戦国大名、マムシの異名を持つ斉藤道三の言葉です。自分の息子たちは信長の軍門に降る、という意味でしょう。これは斉藤道三が信長に謁見した時に漏らした言葉だそうです。

と、いうのは、実は信長の正室である濃姫(のうひめ)は、斉藤道三の娘なのですね。信長は斉藤道三にとっては婿殿となるわけです。

義理の父・斉藤道三と義理の息子・織田信長が尾張と美濃の国境付近で対峙した時のお話です。


斉藤道三は婿殿が本当に「うつけ」なのかどうか見極めるために、信長が居城を出て会見の場へ向かう途中、信長の服装が見たくて、付近の農家の家に隠れて信長を観察しました。

確かに服装や外見は人を判断する材料のひとつになり得るでしょう。

信長が現われました。

道三は呆気に取られました。

と、いうのは、信長が着ていた着物には男の男根が刺繍されていたのです。

道三は信長を「うつけ」と判断しました。同時に道三も正装を脱ぎ捨て、平服で信長を迎えることにしました。

しかし、会見の場に現われた信長は正装で現われ、慇懃に道三に挨拶したのです。

「織田上総介信長でござる。」

と。

※この当時、信長が朝廷から得ていた官位は上総介(かずさのすけ)でした。

逆に恥ずかしい思いをしてしまったのは道三です。正装を脱ぎ捨て、平服で会見してしまったのですから。そしてこの時に信長の才能を見出し、

「わしの息子たちは尾張の婿殿の前に馬を繋ぐこととなるだろう。」

と家臣に漏らしたと伝えられています。

このエピソードを、今日、私たちはどのように受け止めれば良いのでしょうか。

以下は私、あんこの私見です。

人を見た目で判断してはいけない。
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DATE: 2008/09/03(水)   CATEGORY: 歴史
織田信長について考える。
田舎講師のあんこです。

本日、織田信長を授業で取り扱いました。

授業では語りきれないことが沢山ある人物です。

今日はそんな織田信長の話をひとつ。


私、あんこは信長は苦悩の人だったと思うのです。


信長が織田家を相続して間もない頃の出来事です。

信長は「尾張のうつけ」で通っていました。守役(教育係)の平手政秀(ひらてまさひで)を困らせ、父親の葬儀にも喪服では出席せず、焼香の際に位牌に灰を投げつけるような有り様でした。

一方で弟・信行(のぶゆき)は礼儀正しく、頭もそこそこ。織田家の家臣たちは信長ではなく、弟・信行に織田家の相続を望んだといいます。

後の織田家の重臣・柴田勝家(しばたかついえ)も信行に家督を望んだひとりでした。

父・信秀(のぶひで)の死後、家督を相続した信長に対し、信行は反旗を翻しました。柴田勝家も信行に味方し、信長に決戦を挑みます。

織田家の家督を巡った兄弟対決の勃発です。


勝利を収めたのは兄・信長でした。

信行の反乱は成功せず、信長の前に屈します。その際に、柴田勝家らは許されましたが、実弟・信行は処刑されてしまいます。信行を生かしてしまっては、またいずれ自分に逆らうことを予感したのでしょうか。それとも、家臣一同への戒めのために涙を呑んで処刑したのでしょうか。


真相は私、あんこには解りかねます。

しかし、弟がいる兄の立場として、弟と戦わなければならない、というのは断腸の思いではなかったのだろうか、と想像します。

とにかく、こうして織田家の内紛を治め、信長は天下布武に乗り出すわけです。


信長は非常に興味深い人物だと思います。様々なゲームにも登場しますし、熱狂的な信長ファンもいます。彼の激しい生涯に魅せられているのでしょうか。

確かに、私、あんこも一応男ですので、信長の激しい生涯に魅せらます。しかし、その反面で、苦悩の人だったと思うのです。
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DATE: 2008/08/21(木)   CATEGORY: 歴史
続・足利氏の天下について思うこと。
田舎講師のあんこです。

今日は、以前お話した「足利氏の天下について思うこと。」の続きです。

南北朝時代

という時代区分が日本史にはございます。

日本の皇室が、後醍醐天皇の吉野の朝廷こと南朝と、足利尊氏が擁立した光明天皇の京都の朝廷こと北朝とに分裂し、お互いが皇位継承の正当性を主張し、争っていた時代です。

南北朝時代は、三代将軍足利義満の時代に終焉を迎えます。

足利義満の斡旋により、南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に三種の神器を譲渡し、以後の皇位は後小松天皇の系譜が就くことになり、南北朝は統一されたのです。

1392年の出来事です。(イザクニは一つ、南北朝と覚えましょう)

さて、こう見ると足利義満は朝廷のために一役かった英雄のような感じがしてしまいます。が、この南北朝時代を招いてしまったのは誰でしょうか?

足利尊氏
です。

足利尊氏は後醍醐天皇のために鎌倉幕府と戦い、建武の新政に一役かった武将ですが、後に後醍醐天皇から離反し、光厳天皇を擁立したため、後醍醐天皇は吉野に逃れ、南北朝の動乱が始まったのです。

まぁ俗っぽい表現をすると、孫の義満が祖父の尊氏のケツを拭いてやったわけですね。

時は流れ明治時代。

日本は天皇が治める国だ!天皇陛下が1番エライんだ!!という皇国史観の考えから、天皇家を分裂させ、しかも後醍醐天皇に弓を引いた足利尊氏は逆賊として評価されるようになります。


私、あんこは先生と栃木県足利市を訪れたことがあります。その時に足利を案内してくれた老人が言っていました。

「足利市出身というだけで、戦前は逆賊扱いをされた。軍隊では1発余計に殴られた。」

戦前は足利市出身というだけで、不当な差別を受けてしまうこともあったのですね。他にも老人は色々話をしてくれたはずなのですが、この一言が非常に印象深く、あんこの中に残りました。


先生は森高千里が好きだったと仰られていました。あんこは、先生を喜ばせたくて、森高千里が足利市を歌ったという「渡良瀬橋」の8cmシングルを探し回りました。

でも、先生は私、あんこの車には乗りませんでした。


床屋の角にポツンとある 公衆電話憶えてますか
きのう思わずかけたくて なんども受話器とったの
この間 渡良瀬川の川原に降りて ずっと流れみてたわ
北風がとても冷たくて 風邪をひいちゃいました

森高千里「渡良瀬橋」

エアコンの風がとても冷たくて 風邪を引いてしまったのは、私、あんこです。
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DATE: 2008/08/19(火)   CATEGORY: 歴史
何が正解かなんて分かりません。
田舎講師のあんこです。

私、あんこは何が正解かなんてわかりません。

今日はそんなお話をひとつ。

南京大虐殺

日中戦争中に起こった事件です。

今日の教科書には南京事件と表記されていますね。

この南京大虐殺(南京事件との表記の差はありますが、本稿では南京大虐殺で通します。私なりの考えがあるので、反対意見の方、見逃して下さい。)

日中戦争中に、中国の南京で中国軍と日本軍が衝突し、市街戦を展開しながら日本軍が南京を陥落した際に、中国軍のみではなく、南京んの一般市民まで虐殺した、という事件で、死傷者の数は未だに議論を呼んでいるわけですが。

死傷者の数が問題なのでしょうか。
死傷者の数が問題なのでしょうか。

私、あんこは本当にそう思います。

しつこいようですが、

死傷者の数が問題なのでしょうか。


私、あんこは昭和の男ですが、戦争は知りません。戦場で人間がどのような心理状態になるのかは理解することができません。

世間はオリンピックで賑わっています。

ナチスのヒトラーはベルリンオリンピックでナショナリズムを高揚させています。
ドイツの選手が沢山メダルをとったため、ゲルマン民族が優秀な民族であると、ドイツ国民のナショナリズムを高揚させています。

例えば高校野球で自分の母校を卒業生として応援する。これは普通の行為だと思います。

だからオリンピックで自国の選手を日本人として応援する。これも普通のことだと思います。

でも、ナショナリズムは時として変な方向に向かってしまう時があります。

このナショナリズムが変な方向に向かってしまった時、戦争は勃発してしまうのではいでしょうか。

少なくとも、戦前の日本の教育にはナショナリズムを高揚させていた箇所があると思います。


くどいようですが、死傷者の数が問題なのでしょうか。


私たちは、歴史から学ぶことができます。

なのに、死傷者の数が問題なのでしょうか。

私、あんこは違うと思ってしまうのです。

反対意見の方。これが私の考えなんです。色々な意見があると思います。

議論の際にはお手柔らかに願います。
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